狩りの能力と哲学

暇だけど仕事だから従事しなければならないことがある。その場に自分がいなくても何も問題がない場面だ。例えば、人が来ない駐車場の警備とか。僕の仕事は普段は忙しいけれど、土日の仕事はとてものどかだ。

言い換えると、暇だ。

今日は青空だったから、のどかに仕事しつつ、考え事をしていた。「人生は壮大な暇潰し」と誰かが言っていたことを、思い出した。

昔はそうじゃなかっただろう。「生きたい」という本能は装着されているからさ、飯が食えないっていうのは辛いことだったはずだよ。マンモスを仕留めるために、狩りの力を高めるにはどうすればいいか?って本気で考えていたんだろうな。

今は保存期限も長いお米という食べ物があるんだ。お米をゲットするための方法は無数にある。無数にある方法(ジョブ)の中で何を選ぶかは自由。人間はそこまできた。

そうしたら幸せなはずだよ。先祖は未来の若者は幸せだろうなと思いながらこの世を去っていったと思うよ。でも違った。自由なはずなのに「見えない制限」を人間みんなで作り出して、手足をがんじがらめにされている。「仕事を変えるのはリスク」「早く引退したら勝ち」「途中で投げ出すなんて無責任だ」とか。

もう一度、立ち止まって今の状況を考えてみよう。生を受け、長い時間を与えられて、その長い時間を自由に使っていいよと言われているんだ。狩猟能力がなくても、食べ物が得られるんだ。長い時間(暇)をのどかに過ごしたって、激しく過ごしたって、丸なんだな。

「ただ生きるではなく、よく生きる」という言葉があるけど、それは「一生懸命苦労して生きる」という意味じゃない。「のどかに生きたいと思ったらのどかに生きる」これが、よく生きるってことじゃないか。何を実現したいかは、主役の判断に任せられているんだ。地球温暖化の問題を解決したって、お金を莫大に稼いだって良い。

何をしたいか分からない!とそこで意見が出てくる。その、「すること」が一生懸命で苦しくないと、不安なんだろう。その棚から、探そうとするから何も見つからないんだろう。

僕は大学の頃にある光景が浮かんだから、その仕事についた。その光景は素敵なものだった。そして腕が上がらなくても、ゲットできる飯の量は勝手に増えるような仕事だ。でも、食える飯の量は決まっている。車のエンブレムがHからペガサスになろうが、青と白のツートンカラーになろうがどうだってよい。

この先はどの場の時間と生きるのか。ほかにどんな場所があって、どんな時間の過ごし方をするのか見に行きたい。